なんにも持たない「積極的手ぶら登山」のススメ。

山を歩くとき、その行程の一部を「空身」で歩くことと、
「手ぶら」でその日の行程すべてを歩きとおそうと企むこととは意味が異なります。

気が狂ったのか、と思われるかもしれません。

なにも持たず、手ぶらで山に登って、もし遭難したら。
無謀登山といわれるのは目に見えています。
でも、その手ぶら登山が「無計画」なものではなく、「試みとして意図された」ものだったなら、どうなるでしょうか。
そうした計画的な手ぶら登山の究極のひとつが、フリーソロかもしれません。

自分は、ふだんは地図と磁石、水と行動食は必ず持ちます。
ファーストエイドキットを持ちます。
雨具を持ちます(最近は持っていかないことが増えました)。
そのほか、笛、軍手、キジ紙、ヘッドライト、メモセット、カメラを持っていきます。
ときに応じて防寒具も。
でも、勝手知ったところに行くときには、これらをグッと減らすことはできます。

いまからたった100年より前は、山はスポーツやレジャー、あるいは気分転換やSNSでみんなに自慢する場所ではなく、日々の食べ物を採ったり、樹木や鉱物など金銭的な価値をもつものを採ったり、ひとによっては遁居する場所であり、あるいは厚い信仰の対象でした。

その頃のひとたちは、いまのように興味に任せて広範なエリアで山に登ることはせず、日々の生活に密着した勝手知ったる地元の山や沢にだけ出入りしていたことでしょう。
または、たとえば槍ヶ岳を開山した播隆上人や、穂高岳に登った円空のように、神仏の懐中に入ろうとして、あるいは苦難で自らを切磋琢磨しようとして、険しい高峰に挑んだ大先達もいます。

いずれにせよ、そうした人たちは、現在のように合理的な装備で入山していた訳ではありません。
今の私たちからは考えられないような軽装で山に入っていったはずです。
そうした山と人との古来からの関わり合いから、いまの私たちが学ぶべきことも、きっとあります。

地図と磁石をポケットに突っ込み、天気予報をよく見定めて、日帰りの手ぶら登山を遂行してみませんか?

行動食はどうするの?

下山するまでなにも食べなくてもだいじょうぶ。
ゆっくりと5-6時間くらい歩くとき、なにも食べなければからだが本来のバランスを取り戻すよい刺激になる、といわれます。
でも、地図を入れた反対側のポケットに、飴やチョコバーくらいは突っ込みたくなりますよね。持っていってもいいですよ!
空腹で低血糖になったときの行動に、現代人の私たちは慣れていませんから。

水はどうするの?

水場がある登山ルートを選ぶのが無難。
でも半日くらいはなにも飲まなくても死ぬことはないです。

ァーストエイドや雨具、ヘッドライトその他のものはどうするの?

どうしても必要だと思ったら、着ていく、装着していく(笑)。

緊急脱出についてよく考えて!

なんらかの事情で目的地へ行けなくなったときのことをよく考えておいてください。
「どこで、何時までに」調子が悪くなったら出発点に戻るか、途中の道から目的地以外の安全な場所まで行くか、あるいは目的地まで行くのか。
プラン時に考えておき、地図に書き込んでおくなど「文字」にしておくと頼りになる。

なにも持たないで山に入っていくことで、私たちはきっと
・いままで感じたことがないような身の軽さと自由さ
・いままで感じたことがないような不安
を同時に感じることになると思います。

その経験は、山へ行くときの装備や準備についてきっと新たな視点で見直すチャンスになるでしょう。

「現代には冒険がなくなった」なんてワケ知り顔に書いたり、語ったりするひとっていますよね?
でも、手ぶらで山中へ入ることは、すぐ実行できるカンタンで冒険的な行為です。
それにも増して、周到な準備をするという意味で、いつも以上に山をマジメに考える機会でもあります。

手ぶら登山では、バックアップのためのさまざまな装備を背負った登山に較べると、自分の命が危険にさらされます。
つぎに、「手ぶらで山に入るなんて気違い沙汰である」という世論に対して、挑戦的な行動をとることになります。社会人としてかなり危険です。
(このブログ自体がすでに冒険的かも。)

そうした危険を冒すこと、まさに「冒険」をすることで、私たちは一歩、山歩きの真髄に近づき、自然と自分との関わり合いを客観的に見つめ直し、自然が発しているメッセージを聞き取ることができるでしょう。